Jリーグ30周年を迎え、様々なところでベストイレブン選出企画が行われています。そこで、我が茂’sblogでもその企画にあやかり「横浜F・マリノス ベストイレブン」を独自に選出してみました。選出基準は「私をワクワクさせる選手」です。果たしてどの選手たちが選ばれたか乞うご期待ください。
GK ゴールキーパー
川口能活(1994年-2001年)
シゲさん、哲ちゃん、大樹くん、パギなど、マリノス歴代GKは素晴らしい選手ばかりのため、誰にするかとても迷いまいしたが、やはり川口能活選手を外すことができません。
怪我をも恐れない迫力あるプレーと、勝利に執着する攻撃的な姿勢は、これまでのGKのスタイルとは異なり観るものをワクワクさせました。
彼には様々なエピソードがありますが、中でも1995年のエスパルス戦。1-2でリードされるロスタイムで、最後のCKの際にゴール前まで上がってヘディングシュート。
しかし、ボールは惜しくもバーに当たり、試合には敗れたものの、川口選手らしい勝利への執念が垣間見れることができました。
また、1996年、アトランタオリンピック1次リーグ第1戦でブラジルと対戦した「マイアミの奇跡」の際には、川口選手は28本ものブラジルのシュートを凌いで日本が勝利。世界中に川口能活の名前を知らしめました。
DF ディフェンダー
中澤佑二
F・マリノスを代表するディフェンダーと言えば、フィールドプレイヤー歴代1位となる178試合連続フル出場を果たした鉄人・中澤佑二選手を外すことができません。
ユウジといえば、高いディフェンス力はもちろんのこと、ボンバーヘッドから繰り出される数多くのゴールで私たちをワクワクさせました。
中でも、2014年1月1日に行われた天皇杯決勝において、俊輔のCKを中町選手がヘディングシュートして一度はGKに弾かれるも、そのボールを再度佑二が頭で押し込んで、サンフレッチェを引き離す2点目のゴールとなりました。
また、ヘディングだけでなく足技にも優れ、2014年フロンターレ戦では、俊輔からのCKを見事ボレーで決めて競技場のF・マリノスサポーターを驚かせたことがありました。その時、佑二が両手を大きく広げて喜ぶ姿が印象的でした。
井原正巳
私が横浜マリノスのサポーターになり、最初にファンになったのが井原正巳選手でした。サッカー日本代表キャプテンを122試合つとめ、その数は遠藤選手に続き2番目となっています。
「アジアの壁」と称されその存在感は絶大。大きな体を駆使して、ファールすることなく相手からボールを奪うテクニックは井原選手ならではでしょう。
1995年にヴェルディと対戦したチャンピオンシップ第2戦では、ビスコンティ選手からのFKをダイビングヘッドで決めて年間優勝に大きく貢献。
その様子はスタジアムで観戦していましたが、初優勝の嬉しさのあまりその後もワクワクが止まらず、帰宅後何回もビデオを見返したものです。
2000年、ジュビロ移籍が発表されたのには大変驚かされました。ずっとマリノスでプレーすると思っていたし、マリノス以外のユニフォームを身につける井原選手が想像できませんでしたから。
松田直樹
1995年、マツは安永選手と一緒にマリノスに入団しましたよね。入団当初はやんちゃ坊主が2人やって来た様で、まさか、そんなマツが将来マリノスを背負って立つ偉大な存在になるとは夢にも思っていませんでした。
それでも、前橋育英時代は「超高校級」と称され、Jリーグへ進む際には多くのクラブからアプローチを受けたとのこと。
とにかく相手が強ければ強いほど彼の存在は輝きを増し、その際の闘志むき出しのプレーは私たちサポーターをワクワクさせました。
そして、F・マリノスを去る際には海外クラブからのオファーが届いたにもかかわらず、最も自分を必要としてくれるとして当時JFLの松本山雅を選択。
あまりに突飛押しもない選択に驚くとともに、男気あふれるマツらしい振る舞いでさらに彼のことを好きになったのは言うまでもありません。
ドゥトラ
2001年8月、左SBのスペシャリストとしてブラジルからF・マリノスに入団。変幻自在のドリブルで左サイドを駆け上がり、2003年・2004年のF・マリノスの連覇に大きく貢献したのはご存知の通りです。
2004年、浦和レッズと戦ったチャンピンシップの第2戦はPK戦までもつれ込み、4人目のキッカーとしてドゥトラが登場。あんな大舞台にもかかわらず、相手GKを嘲笑うようのコロコロキックが蹴れるドゥトラを「スゴい」とワクワクしたのは私だけでしょうか。
2012年には再びF・マリノスの一員になるも、38歳という年齢だったため果たして満足なプレーができるかと懐疑的になったのは言うまでもありません。
しかしながら、往年のプレーを彷彿とさせるキレのあるドリブルでチームの勝利に貢献。いい意味で私たちの期待を裏切りました。ありがとう、ドゥトラ。
MF ミッドフィルダー
中村俊輔
入団当初はプロの洗礼を浴びてよくバタバタと倒されていたのを記憶します。右足でシュートが打てるチャンスがあっても、利き足の左足で打とうとして相手に阻まれるシーンも何度が見られました。
しかし、俊輔は当たり負けしない強い体を手に入れ、利き足とは逆の右足でも蹴れるテクニックを身に付け少しづつ進化を果たしていきました。
そして、22歳と言う若さにもかかわらずJリーグMVP受賞。さらに、F・マリノス復帰後の2013年には史上初となる2度目のMVPを受賞。
特に、2013年には、絶対にリーグ優勝をモノにするという魂のこもったプレーで、年間を通して私たちをワクワクさせました。
もしいつかF・マリノスに帰ってくることがあれば、俊輔の様なスペシャリストを育ててもらえたら最高ですね。
ダビド ビスコンティ
1993年にマリノスに入団したビスコンティ。数多くのゴールが挙げられアシストもできる、当時のマリノスで最も輝いていた選手の一人でした。
マリノスがJリーグ初優勝を果たした1995年シーズンには、リーグ3位となる27ゴールをマーク。
さらに、その年のヴェルディ川崎とのチャンピオンシップ第1戦では決勝ゴールを決め、続く第2戦でもFKにより井原選手の決勝ゴールをアシスト。
この試合は現地で30年ほど前に観戦しましたが、今でもあの時のワクワクは忘れることができません。
その後は福岡や鳥栖でもプレーしましたが、やはりマリノスのユニフォームが最も似合っていたと勝手に思っています。
F・マリノスにはこれまで数多くの外国人プレーヤーが入団しましたが、ビスコンティ選手は私の中での最強の助っ人と言っても過言ではありません。
喜田拓也
プライマリー時代からF・マリノス一筋でトップチームまで駆け上がり、今では個性豊かな選手を束ねられるF・マリノスになくてはならない「キーボー」こと喜田キャプテン。
中澤選手が在籍していた頃などにはよくいじられたりして(今でもいじられキャラw)、周りの雰囲気を和ませたりしていました。
やがて、ボランチとして当たり負けしないプレースタイルを身に付けてレギュラー定着。
そして、チームやチームメイト、サポーターへの気配り心配りはもちろん、大谷選手に負けるとも劣らない相手選手へのリスペクトも忘れない、立派なF・マリノスのキャプテンへと成長しました。
果たして、今年F・マリノスが連覇を果たした際には、どれほど聴く人たちの心を動かす素敵なスピーチを披露してくれるのか、今から楽しみでワクワクが止まりません。
FWフォワード
城彰二
今では物申すユーチューバーへと転身を果たした城選手。当時、同じFWだったサリナス選手と共に、数多くのゴールで私たちをワクワクさせてくれました。
それもそのはず、横浜(マリノス、F・マリノス)在籍時には106試合に出場し59ゴールをマーク。ここぞと言う時にシュートを決めてサポーターの期待に応えていたのですから。
バジャドリード移籍のためスペインに渡った際には、現地まで駆けつけて彼のスペイン初ゴールと2つ目のゴール(1試合2ゴールをマーク)を目の当たりにできたのは私たちの誇りです。
帰国後は怪我や体調不良に悩まされて制裁を欠いたものの、やはり城彰二はF・マリノスに無くてはならない貴重なストライカーの一人でした。
仲川輝人
小さい体でありながら屈強で、素早い動きで数多くのゴールを挙げたテル。彼が偉大な選手へと上り詰めるまでには、様々な苦労が待ち受けていたことはご存知の通り。
F・マリノス入団前に前十字靭帯損傷などの大怪我を負い、F・マリノス入団後はあまり出場機会に恵まれずに、町田や福岡にレンタルで移籍して武者修行を積むことに。
その苦労の甲斐あってか、2019年にはマルコス選手と共に15ゴールを挙げて得点王に。さらには、MVPにも受賞されてその名をJリーグに燦然と刻み、F・マリノスサポーターをワクワクさせました。
プレー以外では喜田選手との掛け合いが面白く、喜田選手へのイジリはかなりのものだったとのこと。それだけお互い仲良しだった証拠ですね。
残念ながら、FC東京に完全移籍とはなりましたが、テルの動向は今でもつい気になってしまいます。今度対戦する日が楽しみです。
マルキーニョス
決定力という言葉はこの選手のためにあるのではないでしょうか。マルキーニョスはワクワクするゴールを何本も決めてチームを勝利に導きます。
Jリーグでは333試合に出場し、トータル152ゴールを挙げて外国籍選手最多得点記録を保持しています。
横浜F・マリノスには2003年・2012年・2013年シーズンに所属。中でも、2003年シーズンには久保竜彦選手とツートップを組んで8ゴールをマークし、1995年以来のチーム優勝に貢献しました。
2012年は22試合10ゴール、2013年には32試合16ゴールを挙げています。
現在はブラジルで農場を経営する傍ら、フッチボレー(ビーチバレーのサッカー版)選手として活躍しているとのこと。
いつかまた来日することがあれば、日産スタジアムへも顔を出してくれれば嬉しいですね。
サブスティテューション
GK 飯倉大樹
ヒロキは、初代アタッキングフットボール・ゴールキーパーと言える存在。
ボスが監督に就任したことにより、それまでカウンターを主体としたF・マリノスから、これまで前例のないアタッキングフットボールへとチームスタイルを転換する際、試行錯誤しながら新しいGKのスタイルに順応していきました。
そして、ヒロキのヴィッセル移籍後は、パギや高丘選手などがヒロキをお手本にしてプレー。現在はサブでの出場が多いものの、再びF・マリノスでプレーできることが嬉しくて仕方ない様子がうかがわれます。
DF 柳想鐵
人懐こい笑顔とは対照的に、ピッチでは闘志あふれるプレーでサポーターの心を掴みました。
F・マリノスには1999〜2000年、2003〜2004年に所属。中でも、2003年の完全優勝と2004年の年間優勝の際には右SBとして起用され、チームの勝利に大きく貢献しました。
F・マリノス退団後は韓国の蔚山でプレーし、引退後は指導者の道に進みますが、その後に膵臓がんを発病。
誰もが、サンチョルなら奇跡の復活を成し遂げると信じていました。実際、2020年には病の身を押して来日し、日産スタジアムでサポーターに挨拶した際にはとても元気そうな表情を浮かべていました。
しかしながら、我々の願いが届くことなく2021年6月7日に49歳の若さで死去しました。
MF 奥大介
F・マリノスが、当時最強だったジュビロを押し退けて2003年のタイトルを獲得できたのは、奥大介のおかげと言っても過言ではないでしょう。
視野の広さと豊富な運動量でピッチを縦横無尽に駆け回り、ドリブルやフリーキックでは非凡な才能を私たちに見せつけてくれました。
特に、ジュビロ戦ともなると闘志むき出しで戦う姿がとても印象的でした。私の中では、とにかく14番が似合う選手として今でも彼の姿が鮮明に心に焼きついています。
MF 兵藤慎剛
国見高校から早稲田大学を経て、鳴り物入りでF・マリノス入りを果たした兵頭選手。2008年から2016年までの長きに渡りF・マリノスの主力選手として活躍しました。
小柄な体格でありながらも視野の広さと抜群なパスセンスを武器とし、F・マリノス在籍時には32ゴール(Jリーグ通算36ゴール)をマークしています。
「ひょうど〜、お前と共に、ひょうど〜、走ってゆこう」という彼を応援するチャントはとても秀逸でしたね。
MF マルコス ジュニオール
ご存知、クリリンことF・マリノスの10番を背負うマルコス選手。やっと本来の調子が戻りつつあり、西村選手とのスタメン争いが本格化してきました。
マルコス選手の魅力といえば、なんと言っても闘志あふれるプレーから繰り出される正確無比なパス。彼のパスでどれだけのチャンスが生み出されたことでしょう。
そして、ゴール後はかめはめ波のパフォーマンスを披露。特に、仲川選手在籍時には一緒にポーズを決めて競技場を沸かせました。
F・マリノスの勝利にはマルコス選手の力が欠かせません。ぜひ、今年もF・マリノス連覇に力を発揮してください。
FW 久保竜彦
サンフレッチェ広島から2003年にF・マリノスに移籍すると、一気のその怪物ぶりを発揮した久保選手。抜群な身体能力から生み出させる豪快なシュートが彼の魅力でした。
2003年最終節の優勝がかかるジュビロとの大一番。ドラゴン久保の無類のゴールセンスにより決勝ゴールが飛び出し2-1で勝利し、奇跡のF・マリノス逆転優勝につながりました。
その年は25試合に出場して16ゴールをマーク。Jリーグ優秀選手賞、ベストイレブンなどを受賞し存在感をアピールしました。
FW エリキ
2019年8月にF・マリノスに入団し、あれよあれよという間に8ゴールをゲット。2020年には29試合に出場して二桁となる13ゴールをマークしました。
翌年も当然F・マリノスでプレーすると思われましたが、突然の中国リーグへの移籍。人懐こい笑顔と共に、嵐のように現れ嵐のように去っていきました。
そして、まさか再び日本でプレーするとは。しかもJ2の町田で。そのおかげもあり、現在町田はJ2リーグ首位を走り、2024年シーズンではF・マリノスとの対決も実現しそうです
監督ほか一部スタッフ
監督 アンジェ ポステコグルー
まさに、F・マリノスにアタッキングフットボールを吹き込んだ張本人です。
入団当初は思うような結果が出ずチームは低迷したものの、スペクタクルなサッカーを目の当たりにした多くのサポーターがボスを信頼し続けました。
その甲斐あって、わずか就任2年目でリーグ優勝を果たし、現在の「強いF・マリノス」の礎を築いたのは言うまでもありません。
それにしても、我がチームから優秀な選手を引き抜くのは少し勘弁してください w。
ヘッドコーチ 岡田武史
今も強いが、岡田監督の頃のF・マリノスも本当に強かった。
2003年には、久保選手・奥選手・佐藤由紀彦選手・マルキーニョス選手・柳想鐵選手といったチームの主力選手を獲得。
これらの優秀な選手たちの実力と岡田監督の采配が見事噛み合い、就任1年目にして完全優勝を果たしました。
アシスタントコーチ 樋口靖洋
アシスタントコーチにするには勿体無い方かもしれません。しかし、樋口さんなら選手たちの気持ちを汲みながら時には的確にアドバイスし、時には励ましながら一緒に成長できそうです。
GKコーチ 松永成立(兼任)
シゲさんは真っ先にベストイレブンに選出しようとしましたが、やはり、GKコーチにはこの方の他には考えられません。
ホペイロ 緒方くん
緒方くんがいるからこそ、選手たちがプレーに専念できるのは間違いない事実。仕事場が新しくなってさらにやり甲斐が増したことで、嫁とりはまだ先になるのかな。
F・マリノス ベストイレブン選出は難しい
F・マリノスには多くの優れた選手が過去にも現在にもあまりにも多すぎて、おいそれとベストイレブン選出などするものではないと痛感しています。
しかしながら、過去の選手のことを少しでも振り返ることができて、楽しさも感じられたのは事実です。
一方、残念ながらすでに亡くなってしまった選手もあり、なんとも複雑な感情が湧いてきたのも否定できません。
ぜひJリーグ30周年を機会に、あなたのF・マリノス ベストイレブンを選出してみてはいかがですか。新たなチームの魅力に出会えるかもしれませんよ。
最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
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